| 京都旅行記(6) |
2006.09.21 Thursday


三樹三郎(1825〜1859)
京都生まれの幕末の儒学者。
「日本外史」で有名な頼 山陽(儒学者)の三男。
大阪の儒学者 後藤松蔭・篠崎小竹などに学び、尊皇運動に目覚める。
1853年 ぺりー来航を機に尊皇攘夷運動が激しくなり、1858年からの
将軍後継者争いでは、一橋慶喜(後の15代将軍)を擁立を求め
朝廷に働きかけた為、過激な攘夷志士として大老 井伊直弼の命で捕らえられ(安政の大獄)
六角獄に入獄。翌年10月7日に江戸・小原塚で斬首された。享年34歳
三樹三郎の遺骸は密かに洗浄され、白装束に身を包み棺に納められて
回向院(東京都荒川区小原塚)に葬られ、のち松蔭神社(東京都世田谷区)に祀られた。
梅田 雲浜(1815〜1859)
若狭国小浜藩藩士 矢部義比の次男として生まれ、藩校 順造館で学ぶ。
1843年には上京し、藩塾 望楠軒の講師となる。
ぺりー来航時には条約反対と外国人排斥の攘夷運動を訴え、尊皇志士たちの精神的中核を担う。
吉田松陰らとも交流を持ち、その過激な行動によって安政の大獄で捕らえられ
厳しい拷問をうけるが「攘夷の大儀を知るのみ」とだけ答え、一切の弁明をせず
やがて、獄中にて脚気が悪化し病死する。
若い頃より極貧生活をしていたが、強靭な精神力はこのときに培われていたのではないだろうか?
辞世の句 「君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり 」
更に・更に・追筆したい人物!!
橋本左内 (1834〜1859)
越前福井藩の志士。藩医橋本長綱の長男に生まれる。
1848年(嘉永元)15歳で藩儒吉田東篁につき,『啓発録』を著し、政治への関心を示す。
翌年、大坂緒方洪庵の適塾に学ぶ。
ずば抜けた俊才であり、藩の医員となり1854年(安政1)江戸に遊学。
水戸藩の藤田東湖・薩摩藩の西郷隆盛(吉之助)と交遊。他に梅田雲浜や横井小楠らと交流する。
越前・福井藩主の松平春嶽(慶永)に側近として登用され、
藩医や藩校・明道館学監心得となる。安政4年(1857年)以降、
由利公正らと幕政改革に参加。
日本とロシアの提携の必要性を説くなど開国派の思想を持ち危険人物とされた。
安政の将軍継嗣問題に介入した事が問われ安政の大獄で斬首された。享年26歳。
あまりにも若すぎる死であった。
かの西郷隆盛は橋本左内をとても信頼していたようで、亡くなるまで懐に
左内の手紙を入れていたという話があります。
左内のほうが7歳年下・・・これだけをとってみてもどれほどの人物だったかわかるような気がします。
そして、この人物の著書「啓発録」・・・。すごいようです。
私、読んでいませんが 少し調べてみたら内容のすごさに圧倒されました。
「学とは ならう ということで、 「勉、つとめるというのは、
自己の力を出し尽し、 すぐれた人物の立派な行いを習い、
目的を達成するまではどこまでも続ける みずからもそれを実行していくことである」
という意味合いを含んだ文字である」
「学問とは、人として踏み行うべき
正しい筋道を修行することであって、
技能に習熟するだけのものでは、決してない」 「男子たるものが憂慮するところは、
ただ国家が安泰であるか
危機に直面しているかという点のみ」
(現代語訳:啓発録の名言より抜粋)
15歳ですよ?私が15歳の時には何考えてただろう?
時代が違うとはいえ、ぬるま湯にどっぷり浸かっていた(今も?)
自分と比較すると雲泥の差。比較にならない。比較するのも恥ずかしい。
彼らが獄中の露と消えるには あまりに・あまりに惜しすぎた・・・。
幕末という時代・・・奥が深く、そこはかとなく不思議な時代です。
吉田松陰・梁川星厳 他にもまだまだ・・まだまだたくさんの人物像を知りたいものです。

